エッセイ

いただきます

狂牛病騒ぎに思う

憲法第九条

 死者の多くが軍人だった第一次大戦に比べて、民間人の犠牲が軍人を上回ったことが第二次大戦の新しい特徴である。戦争が軍人だけではなく、多くの非戦闘員を巻き込み、いかに悲惨なものであるかは、東京など各都市の大空襲、島民をも巻き込んだ沖縄戦争、三十万人死者を出した広島、長崎の原爆投下、多くの住民を虐殺したベトナム戦争、そして近年の中近東での戦争など、枚挙にいとまがない。戦争は子供、女性やお年寄りなどの民間人をも犠牲にすることを決して忘れてはならない。

 今一つは国や軍の指導者よりも、赤紙で召集された一般庶民の兵士が犠牲になったことを忘れてはならない。万世飛行場の特攻隊員を見送った女子青年団員のMさんは、「日本を救うため本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもない。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途な少年たちだけで、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬に流れる涙にこびりついて離れませんでした。」(作家・神坂次郎氏の対談から)。

 終戦の昭和二十年、私は幼い三歳であった。〃三つ子の魂〃というが、九州の筑紫平野の鳥栖市で生まれ育った終戦前後のことを実によく覚えている。空襲警報のサイレンが鳴ると、あわてて電灯を消し、庭の片隅に造られた防空壕へ家族全員で逃げ込んだ。爆弾を搭載した敵機B29の不気味な音が上空を通り過ぎるまで、かび臭い防空壕の中で息を潜めていたことを思い起こす。その後戦況が厳しくなり、田舎に疎開した。疎開先から、大空襲で真っ赤に燃え上がる久留米市の夜空を眺めていた。何故か、逃げ惑う人々のことよりも、花火のような美しい夜空に見とれていた。人影を見つけると、急降下して機銃掃射で、逃げ惑う多くの幼友達を殺戮したグラマン機のこと。筑紫平野の田んぼで、空襲警報が鳴り、乳母車の弟を路上に残したまま、母とあわてて田んぼに逃げ込んだ時の恐怖感が焼き付いている。幸いに乳母車の中の弟は無事であったが、後々「あの時兄貴は僕を裏切った」と、折に触れ皮肉っぽく言い続けられるようになったのは言うまでもない。私の記憶にはないが、軍人になった従兄が疎開先の我々家族を訪ねてきた時、腰に下げていた軍刀を見て、真上を飛んでいく米軍機を指さしながら、「その刀であの敵機を切り落とし友の仇を討ってくれ」と私が泣き叫んだそうだ。これは戦後母からよく聞かされた話である。終戦直後、食糧難で母の着物をリュックに背負い、農村に出かけては米と物々交換して帰ってくる父の姿。一度は父と一緒に農村に出かけ、列車から降りたところでヤミ米を検閲する警察官に捕まり、リュックに詰めてあった米が没収された。その時の父の哀れな姿に、屈辱感を幼な心に味わったことも記憶に鮮明である。

 六十年を過ぎた今日、憲法九条の改正問題が急浮上している。改憲の積極的な賛成者は、近隣諸国からの侵略の防衛や抑止のために、また海外に派兵して国際貢献もできるようにするために、軍の保持を明記して自衛隊を疑いなく合憲にしようと主張する。ふりかえれば、戦争が終わって、日本人の多くの人が心底から思ったことは、「もう二度と戦争はしたくない」という平和の願いであったはず。それが今では非現実的なものとして、風化しつつあるのであろうか。

 憲法九条は人間としてのあくまで高い理想である。その理想を求め、戦争のない平和を築く外交努力を続けることこそが、戦没者の死を無駄にしないことであり、真の慰霊ではないだろうか。

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